Profile
つくば市渡辺ピアノ教室 講師
渡辺貴子 Watanabe Takako
<経歴>
大阪府出身、4歳よりピアノを始める。
大阪音楽大学器楽学科ピアノ科卒業。
神戸大学大学院教育学研究科音楽教育ピアノ専攻修了。
大学生時代に保育学科の学生へのピアノ指導から始め、その後は幼児から高齢者まで様々な年齢層の生徒の指導にあたる。サロンコンサートでのピアノ演奏、声楽家の伴奏、童謡とピアノの出前コンサートなど多くの演奏活動とともに老人施設での音楽活動等も行いながら、より効果的な指導法の情報収集・研究・実践にも精力的に取り組む。
<資格>
☆中学校及び高等学校教員免許1級
☆一般社団法人「フィギャーノート普及会」ベーシックインストラクター
☆育脳ピアノレッスン認定教室
☆ピアノdeクボタメソッド認定講師
☆こども知育ピアノ協会認定教室
☆ナチュラルフードコーディネーター
<メディア出演>
☆千葉テレビ「モーニングコンパス」に出演させて頂きました。テーマは「自己肯定感」
☆「TOKYO-MX 未来企業」テレビ出演&インタビューを受けました。テーマは「ピアノこころの保健室」
<来歴>
会社員の父と専業主婦の母の第1子として東京で生まれました。2歳になる直前、父が交通事故で即死し、生活が一変。母は2歳になった私を連れて、実家のある大阪に帰りました。当時はまだ交通事故自体が珍しい時代、さらにかなり悲惨な事故だったこともあり、物心がつく年齢になっても周囲の大人たちはまだ父の事故を私に隠していました。そのせいでしょうか、父の件で深く心が傷ついたという記憶はありません。しかし、死に対して独特の感覚を持つようになっていきました。
大阪に帰って生命保険会社に就職した母はトップセールスレディーに上り詰め、実家の近くに家を買いました。そのため、幼少期の私は自分の家と母の実家を祖母に連れられ行ったり来たりして育ちました。実家にはアップライトピアノがあり、私は好きな時に好きなだけピアノに触れることができました。入園した私立幼稚園に馴染めなかった私に困った母が、絵画教室とピアノ教室に通わせてくれるようになりました。
絵画の方は小4まで続け、何度か児童画コンクールに入賞し、先生にも可愛がって頂きました。しかし、先生のフランス留学を機に辞めてしまいました。ピアノの方は先生の厳しい指導のもと、様々な曲を学ぶことができました。ただ、中学生になり、先生の期待にだんだん息苦しさを感じるようになって来ました。
中学一年の冬、それまで羽振り良くやっていた伯父の事業が急速に傾き始め、ついに倒産…私たち親族までも借金取りに監視されるような状態が続き、一時は私服の警察官に見張りをお願いする事態にまで発展しました。その後数ヶ月は母と私が暮らす決して広くないマンションに伯父一家をかくまう生活が続き、さらに数ヶ月後には祖母が倒れて入院しました。日曜日の午後、テスト勉強の道具を一式を持って私が病院の付き添いをしたこともありました。中1の国語の授業で「諸行無常の響きあり…….盛者必衰の理をあらはす〜」という平家物語の一節に深く感じ入る、そんな子どもでした。
それだけが原因ではないものの、中2までは成績もマンモス校の公立中学で真ん中あたりでした。でもなぜか自分に自信を持っていて、「やればできる」と信じていました。また、その頃から漠然と音大に入りたいと思うようになっていました。
しかし、母の方針で音大に行くのならば公立高校に入らなければなりません。入学後もピアノの練習時間を確保できるよう家から近くて、しかも勉強は最低限でも大学に進学できそうな公立高校は一校しかありません。1000人近くいる生徒の中で上位3%に入らない限り、その学校には入れなかったため、なんとか夢を叶えようと、塾に入ることにしました。数学と英語の塾に通い、中3の4月から半年かけて9教科の点数をひたすら上げていきました。並行して関西二期会の理事をされていた声楽の先生の門下生になりました。
努力の甲斐あってなんとか第一志望に入学することができ、それと同時に中3の一年間お世話になった声楽の先生から音大のピアノ科受験のための先生を紹介して頂き、その先生の門下生となりました。この先生こそ私の運命の師匠、今もお世話になっています。楽しい高校生活を送りつつ、この先生のご指導のもと練習に励み、無事大阪音楽大学ピアノ科に入学することができました。
大学に入る直前、他大の保育科に入学が決まった友人のピアノ指導をすることになりました。これが私のピアノ指導の始まりです。この後続く学生時代、幼児から小中高校生はもちろん、大学の保育科受験生、社会人にご老人….あらゆる年齢、立場の方々のピアノ指導をさせていただくチャンスに恵まれました。
大学3年次、子どもの頃から世話になっていた伯母が、癌で余命一年との宣告を受けました。たまたま大学近くの病院に入院していたこともあり、最後の3ヶ月ほどは私も付き添いで病室に泊まり込み、そのまま大学に通う日が多くなっていました。
伯母は専業主婦。そのせいか、バリバリ外で働く母とは気が合わず、実は私もいつの間にか伯母と距離ができていました。しかし、病室で一晩中伯母の話を聴くうち、私は突然、「こうしてはいられない!」と思うようになりました。そして、今の自分が心から望むことに精いっぱい努力しなければ!と決意、様々な条件を勘案して神戸大学大学院の院試を受けることにしたのです。
翌年の春、無事院生となることができました。大学院の2年間は本当に楽しく充実したものでした。修士を終了した後は、養護学校の高等部で講師をしながら、院生時代にお世話になった先生の研究論文作成チームに入らせて頂き、フィールドワークにも参加。同時に演奏活動も続けていました。
1990年、結婚を機に大阪からつくばにやって来ました。友人・知人が全くいない土地です。とにかく地域社会との関わりを持ちたい一心で近所のヤマハ音楽教室で講師として働きはじめました。1991年に長女、1993年に次女が生まれ、その都度産休を取るも、その後2002年まで稼働しました。
子育ては大変でした。女の子だから育てるのが楽でいいね、と声をかけられることも多かったのですが、とんでもない!!おそらく、ちょっとヤンチャな男の子を育てるよりもずっと骨の折れる子育て期間だったと思います。私自身が疲れ果てて、病院に点滴をうちにいくこともしばしばありました。
母が一人で暮らす大阪には年に数回しか帰れなくなっていましたが、1997年のお正月に帰省した時、母の異変に気付きました。このまま大阪に一人で置いておくのは無理と判断し、つくばに戻るとすぐに土地探しを始めました。家を建て、その年の年末には大阪から呼び寄せた母と一緒に暮らすようになりました。
母は、つくばに来たことで以前よりずっと良い状態で暮らせるようになり、私は母に助けられながら自宅レッスンに本腰を入れ始めました。お世話になったヤマハ音楽教室を退職して自宅レッスン一本にしたこともあり、生徒さんはどんどん増えて50人に。このあと当然ながら子どもたちの進級・進学がありましたが、今思えば申し訳ないほど仕事優先の日々でした。
上の子は早生まれ。うちの子、大丈夫?と思う日々…生徒指導とは違う難しさがそこにありました。小学校1年生の時でさえなかなかテストで100点を取れませんでした。悩みましたが、私にできることはただ一つ。ピアノを教え始めました。
苦戦する学校の勉強とは裏腹に、ピアノは初めから驚くほど上達が早く、譜読みも暗譜も非常にスムーズでした。短い練習時間でピティナコンペティションに挑戦し、予選通過率は100%でした。それでも相変わらず学校での評価は低いままでした。
勉強面で低迷を続ける我が子に業を煮やした私は、小学校の担任の先生に直談判したことも…「うちの子の成績、なんでこんなに悪いんでしょうか?」なんて。中学校の成績もなんとか中間層にいる程度でした。中学から始まった英語のテスト、初めはとても簡単ですから満点近い点数をとる子がほとんどでしょ?と思っていましたが、それすら惨憺たる点数。中1の夏休み、私は英語の塾に放り込みました。個人宅での1対1授業。転ばぬ先の杖…いえ、もうほとんど転んでいました。
しかし、今思えばうちの子にも成長のタイミングに合わせた指導や、その子の性質や内面を見極めたポートが当然ながら必要でした。自分の仕事の忙しさを言い訳に、私はそんな大切なことをすっかり忘れていたのです。
中1の我が子は放り込まれた塾で、初めて英語の勉強の仕方、語学を学ぶことの楽しさを知るようになり、英語の成績はもちろん、他の教科の成績もメキメキと上がっていきました。
全く家庭学習などしなかった子でも、目に見えて成績が上がったり、それに伴って周りの評価が変わると多少は行動が変わるものです。不思議と家でも勉強をするようになった我が子は、ピアノの練習内容、練習方法も自分で考え、改善し、学業との両立を確立しました。
その後、二人の子ども達はピアノを続けながら同じ県立高校に進学、さらに二人とも東京大学に入学しました。
このような経験から、ピアノ指導においては生徒さんお一人お一人の成長過程をしっかり見極めながら、ご本人に寄り添った指導をすることを一番に心がけています。具体的にはまずしっかり話を聴くこと。私がどう頑張ったところで親御さんの代わりはできません。親でもなければ友達でもない、学校や塾の先生でもない。つかず離れずの距離を保ち、信頼できる大人…生徒の皆さんにとってそういう存在でありたいと願いつつ、ピアノ指導にあたっています。
しかし、ここでまたしても大問題。少しずつではあったのですが、母の言動は普通ではなくなってきていました。そしてついに「アルツハイマー型認知症」と診断されました。恐れていた昼夜逆転生活と徘徊が始まりました。ある日、ついに行方不明。警察からの電話で母に再会できたのは夜中でした。産み、育て、今までいっぱい支えてもらった母を、今度は私が支えていくしかない。そう決めた瞬間は、仕事を続けることを諦めた瞬間でもありました。
丁度その頃、新型コロナウィルス感染が拡大し始めました。茨城県でも自粛要請が出て、レッスンを2週間休ませていただきました。働き始めてからほぼ初めて、まとまった時間を得たため、買ったまま読んでいなかった本を読んだり、レッスン動画を見たり、遠方に住む友達とZoomでおしゃべりしたり。そんなことをしているうち、友人からオンラインレッスンの話を聞きました。
仕事を辞めると決意した私には、関係のない話であったはずでした。ところが、熱く語る彼女の話にいつの間にか引き込まれた私は、気が付くと彼女に質問していたのです。「それ、どうすればいいの?」色々な手順を聞き、彼女から試験的にオンラインレッスンを受講。その後、早速生徒さん全員に連絡をしてオンラインレッスンを始めました。
やはり私はピアノを教えるこの仕事が好きで、辞めるなんてできない!心の底からそう思いました。さらに、続けるのであれば究極の目標は生徒さん一人一人の幸せ。私の勝手でやめてはいけない。そいて一人の取りこぼしもあってはならないと確信しました。
それでも家族や友人、生徒さん方やそのご家族にまで助けていただきながら、今もこうしてピアノ教室を続けることができています。本当に辛い時、困難に押しつぶされそうになった時、救ってくれるのは人の愛情・感動・感謝の心ではないか〜今までを振り返ってそう思います。
そこに、ピアノとともに生きてきたことで培われた様々な力がプラスされれば、最強かつ最高の自分を創ることができるとも、確信しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー